酒田市城輪柵跡


2025/05/25(日)

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城輪柵(きのわのき/きのわのさく)は、現在の山形県酒田市城輪にあった日本の古代城柵。国の史跡に指定されている(指定名称は「城輪柵跡」) ということで、見学してきましたが、この遺跡は奈良時代から平安時代の桓武天皇の時代のもので、出羽国国府所在地の有力な候補にはなっているものの確定はされていない場所のようです。 古代史についてのノウハウ不足のため、写真へのコメントを書く能力もありませんが、ちょうど時代は、征夷大将軍の坂上田村麻呂とアテルイの活躍期と重なります。 蝦夷(えぞ)

 日本地名大辞典「山形県」の巻に、わが古里の地名が出ている。今では隣部落の萱場と合併し、字の名でもなくなったものを、こういったれっきとした本の中に見出だすのはうれしいものである。短いので全文を引いてみよう。
 私がこれまで「牛房野峠」と呼んできたのが、ここにいう「杉ノ入超」のことである。  さて峠の名が出たところで、私はこのあたりの歴史をふりかえってみたいと思う。  奈良時代は天平九年(七三七)に、約六千の軍勢を率いた鎮守府将軍大野東人は、多賀城を発進して色麻楯(宮城県色麻村)を経て、尾花沢入りをした。  その時、東人は司令部と目される大室塞(玉野の兵沢遺跡がそれであるとする説が有力だが、異説もある)を造営したことは続紀に記されている

 昭和十五年に山形高等学校に入学して、最初の漢文の授業の時である。出席簿を開いた野村岳陽先生が、「阿部」(私の旧姓)と先ず私の名を呼んだ。そしてまじまじと私の顔を見つめた。
 岳陽先生は、それでも私の顔から視線を離さなかった。光る鋭い目で、私の面体を確かめている風であった。十五秒か二十秒か凝視をつづけた上で、やっと納得したのか、「もっとも、アベの字にもよるがね」と弁解めいたことを言って、次に移った。  中国人に似たあごひげをもつ岳陽先生は、にこりともせずに滑稽なことや卑猥なことを言い出す人であった。テキストは論語で、その講義はアカデミックであったが、突如として「にぎりマラちゅうのはダナ」などと言って、われわれを煙に巻くことがあった。  私はその年度のただ一人の実業学校出身者であった。特に農学校からは、山高創設以来はじめての入学者であった。だから教職員の間でも、
今にして思うと、岳陽先制が私を蝦夷の子孫と見たのは、まことに正しかった。しかし阿部氏だから蝦夷の子孫だと見た点は、当たっていなかった。  ところで小国(最上町)盆地は、奥羽山脈のただ中にある。井の底みたいな所である。そこに入るには五百bから八百bの峠を越さねばならなかった。従って度量なる蝦夷征伐にも、その埒外に置かれ、皇軍が入りこんだ形跡はない。  蝦夷を問題にする場合、それをアイヌと見る学者や郷土研究家が少なくない。佐藤義則氏も、蝦夷をアイヌと見ている。しかし反対に、それは純粋の日本人だと主張する人もいる。   蝦夷は異民族でも、もちろんアイヌでもなく、古来から東国の山野に生活し続けている純枠の日本人、原日本人でヤマト人と何ら異なるところはなかったのです。
 『水底の歌』の梅原猛氏も、最近「日本の深層」という本を著して、蝦夷問題を扱っている。
これも読み物としては面白いが、真実からは遠い感じがする。
 私は、旧蝦夷地に生まれた蝦夷の子孫なるが故に、この問題に人一倍の関心を持っている。
 河北新報の一力一夫氏が、みちのくの蝦夷は、すべて原日本人でありたといっていることは前に記した。しかしそう断定できないことは、史書をひもとけばすぐにわかる。
 この二人の蝦夷は、貢ものでも、見せものでもなかった。唐天子に、白鹿の皮や弓や箭(ヤ)を献上しているところから見ても、立派に人格を認められた存在であった。
 斎明天皇より五代遡ると、敏速天真である。この十年の紀に、 蝦夷数千辺境ヲ寇ス。是ニ由テ、魁帥綾糟ヲ召ス。  そして総帥がアイヌの偉丈夫だとことわっているのは、その下にいた部下たちの多くは、毛人以外の人たち、すなわち和人達であったと受け取られるのである。  アイヌの大将に率いられる和人の軍団 −− それが和人にとって名誉なことでないからといって、その史実に目を覆ってはならない。  その協調関蜂をゆるがし、破壊したのが仏教であった。六世紀に日本に入ってきた仏教は、七、八世紀にかけて、朝廷を中心に急速な進展ぶりを見せ、やがて国教的な進歩を占めてゆく。
 持統天皇三(六八九)冬に、陸奥国優嗜曇(ウキタム)の蝦夷、脂利古男麻呂と鉄折の二人が、鬢髪(ビンパツ)を剃って沙門になることを許された。この二人の入信の記述  ところで歴代天象の中でも、最も仏教の信仰心の篤かった聖武天皇のころになると、蝦夷はイコール北方の反仏教徒の意味になる。  では、アイヌ人達はどうなったか。一部和人に融合し、稀には僧侶になるものさえあった。しかし純血を尊ぶ大部分は、仏教に追われて北海道へと去っていったものと思う。  それを私自身について見れば、色が黒いこと、毛深くないこと、眼窩が窪んでいないことなどの、反アイヌ的要素のみが目立つ。しかし全くアイヌ的要素がないかというと、そうでもない。
こうやって書き写しをしてみたら、岩手県の小説家、高橋克彦の『火怨』の主人公アテルイと坂上田村麻呂のかっこいい生き方に、心躍らされたことを思い出しました。 この主人公たちの活躍した大地を、岩手県から山形県酒田市に移すことは、今までの岩手県の学者や学芸員、作家のみなさまの築いた歴史を考えると、かなり困難でしょうが ちなみにオヤジの姓のアベは、1050年頃起こった前九年の役で活躍した安倍貞任らの一族の姓で、山形県にも、その戦跡や伝説など多く残っています。したがって、オヤジの姓は安倍でないほうなのでした