酒田市城輪柵跡  
   
 
 その時、東人は司令部と目される大室塞(玉野の兵沢遺跡がそれであるとする説が有力だが、異説もある)を造営したことは続紀に記されているが、同時に丹生の安久土にも砦を築いた(その遺跡といわれる所が、戦後東北大学によって調査されたが、今では整地されて田畑になってしまった)。安久土は、山刀伐、背名坂、牛房野の三峠の、扇の要の位置に当り、戦略的に重要なところであった。すなわち宮城県北部岩手県の蝦夷が侵攻してくるには、この三峠の何れかを通らなければならない。それに備える必要があった。東人の当面の目標は、秋田の雄勝であったが、出羽の蝦夷よりもっと強大な蝦夷が、岩手の南部方面に存在した。それが動き出したら事である。その侵入口の蓋の役を果したのが安久土の砦であったろうと思われる。