酒田市城輪柵跡  
   
 
 ところで小国(最上町)盆地は、奥羽山脈のただ中にある。井の底みたいな所である。そこに入るには五百bから八百bの峠を越さねばならなかった。従って度量なる蝦夷征伐にも、その埒外に置かれ、皇軍が入りこんだ形跡はない。佐藤義則氏の「小国郷野話」に、
 多賀城から奥羽山脈を超える横断道路の「玉野新道を開き」出羽さくへ出たと古い記録にみえるが、玉野とは今の尾花沢あたりといい、一説には小国郷の南の田代峠から赤倉に出て、山刀伐峠を超えて尾花沢へ道をきったともいい伝えている。(一六項目)
とあるのは、大野東人の新道開拓にかかわる一説のようだが、全く考えられないコースである。東人にせよ、坂上田村麻呂にせよ、この丼の底には入り込まなかった。平野部を平定すれば、山間部はほおっておいても、皇化に靡く。そう判噺したであろうと考えられる。従ってこの山間地帯には、蝦夷時代の人間がそのまま住みついて、近世、近代を迎えたと考えてよいであろう。いってみれば蝦夷の純血種が、そこには住みつづけた可能性が大きいのである。