安達峰一郎博士の話

2001/06/02作成 2002/03/06 更新 

2002/03/04 安達峰一郎展

 昨日安達峰一郎展見てきました。東京の記念館にあるものを持ってきての展示会だけにいろいろありました。各国からの勲章の数々、ハーグで着ていた法衣、いろんな人への手紙等々です。博士が記載された昭和一桁の新聞も置いてありました。昭和六年の東京日日新聞だったと思いますが博士が司法裁判所長に選ばれる可能性大の記事とともに張学良の記事がありました。満州事変で日本の敵は張学良となった歴史から考えると、別に悪く書いてあるわけではなく「共産党と戦うため○○へ移動した」との内容でした。満州事変前までは国内外で日本はかなり普通の国という感じで存在してたのではないでしょうか。軍部だってまだかなりのんびりした時代でトップは内部権力争いに明け暮れ、石原莞爾くらいが必死に「どうすれば局面の打開を図れるだろう」とか考えていたのではないでしょうか。問題は満州事変以降にあるのであります。『満州事変』のようなことをすると英雄になれるんだと幾多の将校、兵士が考え、日本陸軍の精神構造を変革していき十月事件、五・十五事件、二・二六事件へと歴史が流れたのだとすれば、後から「戦争反対、東条英機辞めろ」と言ったとしても石原莞爾の功罪はおのずと評価されるのではなどと勝手に考えております。
 歴史を作るのは金、利権、狂信、復讐、ヒロイズム。
 東京の記念館の資料からもドラマティックな資料は探すことあたわずでした。「司法裁判所長になるだろう」「司法裁判所長に選出」「再起不能」「亡くなる」の記事ばかりで、どういった国際問題をどのように劇的に調停したかなどの資料はまだ得ることが出来ません。

 本日の新聞の訃報欄に二・二六事件の青年将校、池田少尉が亡くなったとありました。戦争の経験者が誰もいなくなるまで本当に残りわずかな時間しか残されていないみたいです。

2002/02/16 パリ講和会議のこと

 博士も代表代理になって出席した1919(大正8)年のパリ講和会議における牧野伸顕のことを昨日の『その時歴史が動いた』でやっていた。牧野は大久保利通の息子で吉田茂の舅である。その時の世界情勢で会議の中心はアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本の五大国であった。牧野以外は大統領、首相クラスのメンバーであり、日本だけが政府の了承なしに何も意見を言ってはいけなかった。何か言わなくっちゃかっこつかないということで、言っても政府から怒られない提案を考えに考えて出てきた案が『人種差別 の撤廃』であった。という主客転倒のような提案を牧野はし、その提案にのめり込んでいき、がんばったが否決されてしまうという話であった。
 なんかとってつけた考えを突然持ち出しそれを自分の命題みたいにしてしまいがんばったとするのは、ちょっと番組の持って行き方として疑問。「牧野はつねずね白人優秀とする列強の考えを否定していた。」として切り出せばもっと歴史的ヒローにもなり得るのではなかったろうか。
 その時峰一郎博士は40台後半の歳、多分牧野さんのブレーンとしていろいろな案を考えたのであろう。そういった資料も今度の展示会で見れるであろうか。楽しみにしよう。
『正義より利権』・・・すべて歴史はコレ

2002/02/15 山変人と満州と山形県出身者

 なぜ山変人が溥儀さんやら紫禁城に興味をしめすかといったら映画『ラストエンペラー』によるところが大きいのであります。「なせばなる」の米沢藩士を父に持つ満州の帝王、甘粕正彦の役を坂本龍一がやっており、岳父が満州映画協会で甘粕さんの部下であったのを知ったのが一番の原因と思えます。
 満州事変を起こしたのが石原莞爾、その下地を作ったのが大川周明、満州を陰で支配したのは甘粕正彦と善悪はともかくこのころは山形県出身者が大活躍でありました。安達峰一郎博士も入れて山形県出身者だけの小説でも誰か書いてくれないかな。安達峰一郎博士が国際司法裁判所長に選出された1931年の秋に満州事変は勃発しているのです。そして次の年連盟脱退。博士の心中やいかに・・・だったのだろう。

2002/02/07 安達峰一郎博士と宮城浩蔵氏

 郷土の偉人発見。安達峰一郎博士の資料見ていて宮城浩蔵氏を知りました。なんと明治法律学校(現明治大学)の創設者の一人なのです。明治といえばすばらしい大学で義兄の親しい同級生が教授をしております。しかし、今までまったく知りませんでした。
 山形の薬師公園には訳のわからない石碑がいっぱいあります。読む気も起こらない細かい漢字がびっしりと書かれているのが二三あります。その中の一つが「宮城浩蔵顕彰碑」です。西から駐車場に入る入り口の所です。この碑の篆額は西園寺公望の筆に、碑文は中江篤介(兆民)の撰によるものであります。(その訳文の書かれた書物あります。リクエストあればどうぞ)
 また博士の資料の中に関山新道事件なる明治十三年の三島通庸県政対地元住民の政治抗争事件があり、天童村の佐藤伊之吉なる総代様が安達家の本家の先祖、安達久右衛門とともに登場してます。三島通庸と戦ったのです。どうやらその方は天童の名門で宮城浩蔵氏のごく近い血族のようであります。同じ法律専攻ということからも当時十代前半の峰一郎博士は宮城浩蔵氏にあこがれて進路を決めたのではないかなどとかってに納得しました。

2002/02/06 下記を読んで思ったこと
 

 ワールドカップ日本の運命の対戦相手国ベルギーで一番有名な古い日本人は我らが大先輩安達峰一郎博士かもしれない。
 したがって上記の日本についての講座など受講している学生がベルギー代表にいたら日本人の特性などまで情報を得て来るのでは。日本人の弱点は○○だとか調査し、秘策をもって試合されたら不利になる。などとかってに危惧する心配性の山変人であった。


2002/02/05
 安達館長が翻訳してくれたベルギーの大学のHP内容

 安達博士がベルギー公使時代にベルギー国のために行った安達博士ならではの、すばらしい業績を紹介したものです。
 即ち、安達博士が着任して間もなく、同国より、ルーベン大学法学部名誉教授{又は、名誉法学博士かもしれませんが・・・}の称号を与えられた。この恩返しという訳でもないでしょうが、安達博士は、第1次世界大戦の戦乱で破壊されたルーベン大学に、図書館を建設し、それをプレゼントする事を申し出たようです。そして、同大学の承諾を得て、それを実行した。このことが切っ掛けになって、同大学に、それまでは無かった、日本についての講座が開設されることになり、ベルギーの東洋学研究が開始され、今日に至っている由。この事を含めて、ベルギー国の苦難の歴史を紹介したもののようです。


2002/01/26 山辺町生涯学習施設 安達館長

 山辺町生涯学習施設に遊びに行って館長様からいろいろ話を聞かせてもらいました。館長の家がこの辺の安達の本家であり墓に入っているのがお父様で50人目、館長は十九代目だそうです。ここの安達は室町のあたりか一旦安達太良のほうに住んでいてそのために安達姓を名のった。柏倉の安達(友人一人あり)は北条時宗の舅だった伊豆の安達家の子孫となっているそうです。博士直系のご子孫も60人くらいいるけどもこの辺にはどなたも残ってらっしゃらないそうであります。また海外で生まれたご子息の子孫で、外国籍になってしまった人もいないそうです。
 東京の安達峰一郎記念館は現在博士の遺品多く所有しているけど展示などはあまり行っておらず、博士の奨学金で学生を援助することが仕事になっているようであります。
 博士は中学時代から節目節目において自分の写真を撮っていました。
「まるで自分が偉くなるのが子供のころから判っていたのだろう」と館長。延べ162枚の両親に宛てた写真が生家に残っていたそうです。
 あとは思い出した都度書きます。

2001/06/02 なぜ安達峰一郎博士?

 このあいだ盛岡一高出身のY社Tさまと話をさせていただきまして、母校の先輩の話になりました。
宮沢賢治】【石川啄木】【原敬】【米内光政(終戦時海軍大臣)斎藤実(第三十一代総理2.26事件で殺害)金田一京助等々の世界的ネームが盛岡一高出身なのだそうであります。
 そんな話を仙台一高出身のU社S課長したところ仙台一高には『大言海』を作った大槻文彦さんという方くらいしかいないようでありました。
さて我が母校には誰がいるんだろうと探してみました。同総会名簿山中一回生の欄に【安達峰一郎博士】が『校友』として載っておりました。そしてなんと山変人の甥っ子が峰一郎博士の係累になっているのであります。甥っ子の六代前の当主様が博士の曾祖父、安達久左ェ門であります。これは掲載しておかなければいけないと思い当ページの作成にいたりました。
平成4年8月30日 安達尚宏氏が 『安達の歴史』を出版しており、室町時代の斯波宗氏あたりからの歴史が書きつずられております。峰一郎博士の写真も『安達の歴史』からお借りしました。
 まだまだ資料不足のため偉業のすべては語り尽くせませんが徐々に増やしていきます。